☆この記事はこのような人におすすめです。
・「投資ジャーナル」の設立者、中江滋樹氏の死因を知りたい。
・中江滋樹氏の妻や息子、娘について知りたい。
・中江滋樹氏と倉田まり子さんの関係を知りたい。
日本が経済大国としての地位を確立していった1980年代。
株価が右肩上がりを続ける中、個人でも株を売買する動きが広がっていきました。
そこに登場したのが、投資顧問会社「投資ジャーナル」を設立した中江滋樹氏です。
大々的にテレビCMを展開し、自ら発行する証券関連の雑誌などで「絶対に儲かる株式売買のテクニック」を発表。
投資家として巨万の富を築き、当時世間をにぎわせ「兜町の風雲児」と呼ばれていた中江滋樹氏が、2020年2月20日、都内の六畳一間のアパートで命を落としたのです。
そこで今回は、投資詐欺で逮捕された中江滋樹氏の妻や息子、娘。
66歳で命を落とすことになった死因や、アイドル歌手だった倉田まり子さんとの関係などについてまとめてみました。
中江滋樹の死因は他殺?
ひげ面に長髪がトレードマークの中江滋樹氏は、あの麻原彰晃を彷彿させる風貌でバブルの栄光と転落を経験。
晩年は東京都葛飾区南水元1の2階建てアパートで1人で暮らし、生活保護を受けていたといいます。
そのアパートの2階一室から出火し、焼け跡から中江滋樹氏の遺体が見つかったわけですが、死因はいったい何だったのか?
(中江滋樹氏が住んでいたアパート)
一応、警察は寝たばこが出火原因と断定。
よって、火災による一酸化炭素中毒が死因だったことが考えられます。
しかし、大勢の被害者から恨みを買っている為、他殺説も囁かれています。
また、近所の人の話によると、毎晩、部屋から怒鳴るような声や、酔っ払って何かしゃべっている声が聞こえたのだとか。
それに体調が優れない時期が続き、住み始めて2年目の頃には、紙に遺書のような言葉が記されていたそうです。
ということは、精神的に追い詰められた挙句、自ら火を付て命を絶ったことも考えられます。
そもそも中江滋樹氏は、放火の現行犯で逮捕された過去があります。
以前、滋賀県の自宅の階段や廊下に灯油のようなものをまき、マッチで火を付けようとして逮捕。
さらに、その数十分前、中江滋樹氏の自宅から少し離れた布団店で不審火が発生。
「中江滋樹氏が近くを歩いていた」との情報から、自宅を訪ねた署員が発見したようです。
なので、アパート火災も過去と同じで、放火した可能性がありそうです。
中江滋樹の妻と子供(息子 娘)
「投資ジャーナル」は中江滋樹氏が1978年に設立した会社でした。
投資手法は、2割の儲けを10回続ければ元手が2倍になるという「ツーバイツー理論」を掲げたり、保証金を積めば預り金の10倍もの融資を受けられるというもの。
こうした口実で沢山の会員を集め、1人あたり10万円から数百万円を徴収して有望株を紹介していたといいます。
しかし実際は預かり証を発行しただけで、株式そのものの引き渡しもなかったとか。
結局、中江滋樹氏は合計で7684人の客から総額580億円を騙し取っていたのです。
ちなみに中江滋樹氏は、逮捕される前日に起きた「豊田商事会長刺殺事件」の永野一男と面識があったとか。
その永野一男にも株投資を勧めたらしいのですが、きっぱり断られたということです。
また中江滋樹氏は、経済界だけでなく政治家たちとも交流があり、赤坂の高級料亭「川崎」や、銀座の高級クラブをはしごする毎日。
そこであるゆる業界の大物たちと知り合っては、人脈を作っていったそうです。
なお、その頃の中江滋樹氏は結婚していて家族がいました。
家族構成は妻の加代子さんと5人の子供(息子、娘)。
(中江滋樹氏の妻)
再婚だった加代子さんは、前夫の子供が1人がおり、1978年に結婚。
なので、中江滋樹氏の実子は4人ということになります。
それこそ当時は財力にものを言わせて、彼女も大勢いたという中江滋樹氏。
そんな生活の中、警察からマークされていることを察知すると、妻や彼女を連れて海外に逃亡。
アジア各地で生活していたのです。
そして8ヶ月間の逃亡生活が終わり、日本に帰国すると、妻・加代子さん(当時31歳)、芸者の彼女らと一緒に詐欺容疑で逮捕。
中江滋樹氏は、1989年に懲役6年の実刑判決を言い渡されることになり、妻の加代子さんとも離婚したのです。
中江滋樹の生い立ち
中江滋樹氏が株投資に目覚めたきっかけは、自身の生い立ちに関係があったようです。
中江滋樹氏は1954年1月、滋賀県近江八幡市に誕生。
父親が証券会社の営業マンだった為、小学生の頃から株に興味を抱き、映画会社「日活」の株に投資。
1972年3月に滋賀県立彦根東高校を卒業後、本格的に株取引を開始しています。
そして高校時代から名古屋市の投資顧問「三愛経済研究所」に出入り。
東大に入れるくらい勉強ができたらしいのですが、高校卒業後は大学には行かずに、京都に「ツーバイツー」という投資コンサルタント会社を設立。
その際に発行した小冊子「月刊・投資家」が、投資ジャーナル設立の始まりとされています。
なお、1978年9月に設立した「投資ジャーナル」は、翌1979年には会員顧客が3000人を突破。
以来、中江滋樹氏は数百億円の資金を動かす「兜町の風雲児」と称され、「体を揺らせば大金が出る」とまで言われるようになったのです。
中江滋樹の彼女が倉田まり子?
投資ジャーナル事件の際、写真週刊誌「FRIDAY」が中江滋樹氏と元アイドル・倉田まり子さんの親密なツーショット写真を掲載。
(中江滋樹氏と倉田まり子さん)
中江滋樹氏から目黒の豪邸をプレゼントされたことが記事になり、愛人騒動となって倉田まり子さんは芸能界引退へと追い込まれたのです。
なお、中江滋樹氏が倉田まり子さんと知り合ったきっかけは、交友関係にあった元テレビ朝日専務の三浦甲子二氏の紹介だったとか。
中江滋樹氏が倉田まり子さんのファンだったことから、食事をする場が設けられたそうです。
しかし、中江滋樹氏は「倉田まり子とは4、5回デートしただけ。男女の関係はないよ」と恋人関係を否定。
実際は、投資ジャーナルの関連企業「バンキング」から7000万円を無利子で借り入れ、自宅を建設していたようです。
ちなみに、倉田まり子さんはその後、投資ジャーナル被害者からのバッシングに耐えられなくなり、建設した目黒の豪邸を売却。
借りた7000万円を返済したということです。
そして、芸能界を去った現在の倉田まりこさんですが、本名の坪田まり子として、実業家・大学教授として活躍しています。
以下がその肩書です。
有限会社コーディアル代表取締役。
大手国際法律事務所弁護士秘書、大手資格予備校執行役員・講師を経て、 2003年3月に独立。
企業・自治体・学生などを対象に、幅広く講演・講義・研修活動をしている。
いずれも受講生のモチベーションを高める講師として定評がある。
プロフェッショナル・キャリア・カウンセラー。
国立大学法人東京学芸大学特命教授。
亜細亜大学非常勤講師。
立正大学非常勤講師。