西沢裕司の現在や家族 自宅は?長島機長が被害に!全日空61便(2024最新)

西沢裕司の画像 事件

☆この記事はこのような人におすすめです。

・全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司の判決と現在を知りたい。

・西沢裕司の家族や自宅場所を知りたい。

・被害者となった長島直之機長の家族などについて知りたい。

 

「全日空61便ハイジャック事件(函館ハイジャック事件)」は、1999年7月23日に東京・羽田から北海道・新千歳に向けて飛び立つボーイング747-481Dの機内で発生しました。

 

何度もテレビで取り上げられているこの事件は、日本のハイジャック史上初めて犠牲者が出たことでも知られています。

 

ハイジャックした犯人は、東京江戸川区小岩の無職・西沢裕司受刑者(当時28歳)で、現在は無期懲役の判決で服役中。

 

被害者の長島直之機長(当時51歳)は、身代わりとなって乗客503人の命を救ったとして、「総理大臣顕彰状」、「運輸大臣表彰」の表彰状が送られたのです。

 

そこで今回は、全日空61便ハイジャック犯・西沢裕司の現在の様子や家族構成、自宅がどうなったのか。

 

被害者の長島直之機長のことなどについて調査してみました。

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西沢裕司の家族構成と両親の職業

「全日空61便ハイジャック事件」の犯人・西沢裕司の家族構成は、父親、母親の両親の他に兄、祖母がいる高学歴一家。

 

事件当時、両親の職業は、父親が特許事務所勤務で、母親が専業主婦。

 

東京工業大学出身の兄は、大手化学メーカーに勤務していたそうです。

 

また、両親が真面目だったためか、西沢裕司の少年時代は全国有数の進学校に通い、成績は常にトップクラス。

 

近所でも評判の真面目な少年だったようです。

 

そんな優等生だった西沢裕司が、なぜハイジャック犯へと変貌したのか。

 

同級生によると、少年時代の西沢裕司はとにかく真面目で、性格はおとなしく、ほとんど友達がいなかったとか。

 

そのかわり、電車や飛行機が大好きだったということです。

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西沢裕司の現在と自宅は?

西沢裕司は、全日空61便ハイジャック事件を起こす前年の秋に約2ヶ月間、精神科病院に入院しています。

 

その為、逮捕後は責任能力が争われたのでした。

 

そして、精神鑑定で「アスペルガー障害」と認定されるのですが、検察側はこれに反論。

 

再鑑定した結果、「4種類の抗うつ剤の影響で、暴力的な傾向が強まった」と判断したのです。

 

結局、アスペルガー障害は認められず、躁うつ状態だったと結論づけられた西沢裕司の判決は「無期懲役」。

 

現在も千葉市にある千葉刑務所で服役中です。

 

また、西沢裕司の自宅ですが、事件当時は東京江戸川区小岩にありました。

 

しかし、逮捕後、両親が遺族らに賠償金を支払うために売却。

 

自宅を売り払った後、家族は田舎に移住したということです。

 

ちなみに、この全日空61便ハイジャック事件は、2007年12月に和解が成立しています。

 

具体的な和解条件は不明ですが、全日空などが長島直之機長の遺族に和解金を支払う他、国などがハイジャックの再発防止策を実行していくことを誓約したとみられます。

 

なお、和解成立前は長島直之機長の遺族が国や全日空、西沢裕司の両親などを相手に計約2億8千万円の損害賠償を求めた訴訟を提起。

 

訴訟を起こされた全日空も西沢裕司と両親を相手取り、1億9400万円余の損害賠償を求める訴訟を起こしていました。

長島直之機長の家族や自宅

全日空61便ハイジャック事件の被害者・長島直之機長の家族は、妻の久実子さんと2人の子供(息子と娘)がいました。

 

家族には、聖公会の信徒もいて、日曜学校に通った時期もあったということです。

 

そして、自宅は横浜市青葉区にあり、事件後、妻の久実子さんはショックでカウンセリングを受ける日々を過ごしたといいます。

 

また、久実子さんによると、事件が起きなければ長島直之機長は、退職後に外国で飛行技術を教えるボランティアを考えていたのだとか。

 

(長島直之機長)
長島直之機長の画像

 

そんな長島直之機長は、1947年8月6日生まれの立教学院出身。

 

小学校から大学まで一貫して立教学院での教育を受けたそうです。

 

しかも、弟も全日空の操縦士で兄も別の航空会社の操縦士という飛行機一家。

 

散歩が好きで、近所では「穏やかな人」と評判だったそうです。

 

それにしてもこの事件は、羽田空港が犯人の指摘を聞いていれば防げたこと。

 

羽田空港は、事件が起きてから凶器の持ち込みを防ぐため、「逆流防止ゲート」を設置しましたが、長島機長の妻・久実子さんは「もっと早く改善すれば事件は起こらなかった」と悔しさをにじませたのでした。

西沢裕司の学歴

家族が高学歴だったこともあり、西沢裕司の成績も良かったようです。

 

しかし、高学歴であっても、満足の行く職には就けなかったのだとか。

 

また、生い立ちに目を向けると、1970年に生まれた西沢裕司は、小学校2、3年生の時にいじめに遭っています。

 

小学校を卒業すると、中高一貫の名門、武蔵中学に合格。

 

武蔵高校時代は「東大以外はダメだ」と友人に語っていたらしいのですが、卒業後は一浪して一橋大学に入学。

 

そんな西沢裕司の夢はジャンボ機のパイロットで、少年時代から乗り物が好きだったといいます。

 

それに難関の一ツ橋大学に進学し、エリートコースに進むも、このころからすでに大の航空機マニア。

 

その証拠に西沢裕司は、専門家でも難しいとされる30種類以上ある羽田の着陸パターンをすべて覚えたといいます。

 

大学時代を一言でいうと、友達が少なく、鉄道や飛行機といった乗り物が大好きだったオタク。

 

フライトシュミレーションゲームに凄くのめり込んで、パイロットを目指していたそうです。

西沢裕司がハイジャックした動機

「全日空61便ハイジャック事件」の犯人・西沢裕司は、大学2年の時、「航空機に接していたい」という理由で、羽田空港の荷物を積み込むバイトをしていた事があります。

 

さらに、航空関係の書籍を読み漁り、日夜猛勉強。

 

そして、「日本航空」、「全日空」、「日本エアシステム」と大手航空会社の入社試験を受けています。

 

その後、合否を伝える通知が届くと、結果は3社とも不採用。

 

長年抱いた夢が無残にも砕け散ったのです。

 

その6年後にハイジャック事件を起こすわけですが、航空会社が不採用となった西沢裕司は、やむなく航空業界ではなく、鉄道会社「JR貨物」に入社します。

 

しかし、わずか2年で退職。

 

退職理由は、コミュニケーション能力不足から対人関係でつまずき、うつとなって放浪したのです。

 

そのころの西沢裕司は、エリート人生で味わった最初で最大の挫折で、生きる気力を失っていたといいます。

 

しかも、放浪後は3年間仕事は見つからずに、自宅に引きこもる生活を送っていたとか。

 

その一方で、航空に対する執着だけは肥大していきます。

 

引きこもっては、フライトシュミレーションゲームに熱中し、航空工学書を読み漁ることを繰り返していたそうです。

 

そんなある日、西沢裕司は部屋に転がっていた羽田空港のターミナルビルの図面を見つけ、あることに気付いたのでした。

 

それは、羽田空港警備に発覚した重大な死角、「手荷物検査をすりぬけられること」。

 

図面通りなら、機内に凶器を持ち込まれる可能性があることに気づいたのです。

 

西沢裕司は、自分が見つけた欠陥を羽田空港事務所に伝えれば知識が認められ、「夢だった航空業界への就職の道が開かれるかもしれない」と考えました。

 

そして、西沢裕司は後日、実際に確かめてみると、難なく手荷物検査をすることなく入ることが出来たのです。

 

これで欠陥を確信し、自分で見つけた仮説が証明されました。

 

次のステップとして、空港警備上の欠陥を細かく説明する文章を作成し、「運輸省」、「東京航空事務所」、「日本航空ビルディング」、「主要航空会社3社」、「警視庁東京航空警察署」、「新聞各社」に実名で送ったのです。

 

ちなみに送った文章には、「警備の強化対策」を提案する旨が書かれていて、実際に空港当局も「警備強化を対策会議」を開き、検討しています。

 

しかし、結局、警備の強化は人件費などを理由に先送りに。

 

業を煮やした西沢裕司は、電話で警備の対策がされてないことを理由に「自分をガードマンで雇って欲しい」と頼んだが、断られたのです。

 

自ら見つけた空港警備の死角が、どん底から這い上がる最後の望みでした。

 

ただ、意見は聞き入れられなかったことで、一度は絶たれた夢をかなえる最後のチャンスが消えたのです。

 

そこで西沢裕司は「ハイジャックを成功させて正しいことを証明してやる」と考えます。

 

思い描いたシナリオは、ハイジャックしたジャンボジェットを自分で操縦すること。

 

さらにゲームで、「完璧にこなせるお台場のレインボーブリッジくぐりを成功させる」という目標が動機となって、ハイジャック犯を計画実行させたのです。

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