作曲家の平尾昌晃さんが肺炎のため、都内の病院で死去していたことが報じられました。享年79歳。
平尾昌晃さんは、2年前に肺がんを患い闘病中だったとか。
肺がんを発症した当初は、仕事をキャンセルしたり、外出時は、携行式の呼吸補助器を使用していたといいます。
その後は病状が回復し、様子を見ながら仕事に復帰していたらしいのですが、このたび突然の訃報となりました。
また、2年前に平尾昌晃さんが救急搬送され、一時危篤状態が続いたことを次男で歌手の平尾勇気氏(36)がブログで報告していたようです。
なお、平尾昌晃さんには3人の息子がいます。
平尾昌晃さんは2度の離婚を経験。
1度目の嫁との間にできた息子が1人。(本来の長男)
歌手の平尾勇気氏は、2度目の嫁との子供で、その上に兄が1人います。
その長男が名古屋で店を経営しているということなので、今回は平尾昌晃さんの家族について、調査してみました。
平尾昌晃の息子 長男は名古屋で店経営
平尾昌晃さんは2度離婚しており、名古屋で店を経営している長男(法律上では次男)というのが、2度目の嫁との間に出来た息子です。
長男の名前は平尾亜希矢氏(38)。
昼間は父親の平尾昌晃さんが創設した「平尾昌晃ミュージックスクール」の名古屋校を運営し、その傍ら、夜は、名古屋市中区錦3-12-22 新錦ビルB1にある「ガルシア」というラウンジを経営しています。
長男はそのほか、美容商品の販売をするなど、数々の経営に携わっている実業家。
ゴルフや野球が趣味で、普段の接し方は謙虚かつ低姿勢だそう。
いわゆる、好青年といった感じらしいです。
平尾昌晃の息子 次男は平尾勇気
一方、平尾昌晃さんの次男の平尾勇気氏(法律上では三男)は、兄と違って「ダメ息子」のレッテルを貼られています。
テレビでもおなじみの次男・平尾勇気氏は若い頃、毎晩、西麻布で飲み明かすなど、絵に描いたようなダメ2世。
父親・平尾昌晃さんから絶縁されたこともあったほどです。
(息子の平尾勇気)
平尾勇気氏も、2004年には、父親のように自身で作詞作曲し、歌手デビューしたのですが、全然売れませんでした。
その後は、イベントなどで父親の持ち歌を歌ってアピールするなどしましたが、注目されることはなかったのです。
また、最近は金髪だったヘアーを黒髪に戻して、テレビに出演した際も、いまだ父親との確執があることを告白していました。
当然、父親・平尾昌晃さんとの共演はNGで、写真も貸してもらえないといい、「連絡も取れない。電話にも出てもらえない」という状況を明かしていたのです。
平尾昌晃は嫁と2度の離婚を経験
肺がんを患っていた平尾昌晃さんは、1960年代後半に肺結核を患い、そのときに片肺を切除していたといいます。
その後の1972年7月に平尾昌晃さんは、現役女子大生と最初の結婚をし、息子をもうけるも、その女性は1975年5月に子供を連れて家を出て行ったとか。
最初の嫁と離婚するにあたって、問題は家裁に持ち込まれ、1976年1月に離婚調停が成立。
慰謝料は1600万円で、長男が成人になるまで養育費を、毎月15万円払うことで決着したそうです。
結局、最初の嫁との離婚原因は、「性格の不一致」というです。
そして、平尾昌晃さんが2度目の結婚をしたのが、1978年7月で、相手は元歌手の小沢深雪さん(当時19)。
小沢深雪さんは高校1年の時、「平尾ミュージックスクール」の1期生になり、1975年2月に歌手デビュー。
しかし、その後、歌手をやめ、平尾昌晃さんと交際。
結婚が発表されたときの小沢深雪さんは、妊娠8カ月だったそうです。
いわゆる2人は、デキ婚だったわけですが、10代の幼妻を懲りずにもらったのは、当時の平尾昌晃さんが40歳だったにもかかわらず、「とりわけ若い子好きだからに違いない」と、はやし立てられたとか。
そして、10月に長男の亜希矢氏が生まれ、1981年3月に次男の勇気氏を授かるも、80年代半ばに再び離婚。
離婚理由は、平尾昌晃さんの仕事が忙しくなったことで、生活のスレ違いが続いたせいでした。
その後、小沢深雪さんは米・ニューヨークに渡って再婚し、現地で日本料理店を開いたといいます。
最初の嫁は、離婚後の1981年5月、フジサンケイグループの鹿内信隆社長(当時)の長男・春雄氏と再婚。
春雄氏は前夫人と離婚が成立したばかりで、翌年6月には子供が生まれたのですが、その2カ月後、嫁は「くも膜下出血」を患い、29歳で亡くなったということです。