☆この記事はこのような人におすすめです。
・内田裕也さんと女優、島田陽子さんの不倫(浮気)について知りたい。
・内田裕也さんの若い頃を知りたい。
・内田裕也さんの収入源を知りたい。
歌手の内田裕也(本名・内田雄也 享年79)さんといえば、女優の樹木希林さん(享年75)の夫。
若い頃は、すぐキレる性格からよく騒動を起こしていました。
一方、晩年は、病気やケガで車椅子生活だったためか、おとなしくしていたようです。
ただ、それでも元気だったので、まさかこんなに早く亡くなると思ってませんでした。
やはり、先に亡くなった樹木希林さんのことがかなり影響していたのかもしれません。
そこで今回は、内田裕也さんの晩年はどこから収入源を得ていたのか?
また、孫や子供のことや若い頃に報じられた女優・島田陽子さんとの不倫スキャンダルについてまとめてみました。
内田裕也の不倫相手女優は島田陽子
若い頃の内田裕也さんは、女優の島田陽子さんと不倫して世間を騒がせました。
(若い頃の島田陽子さん)
不倫相手だった島田陽子さんといえば、1980年に制作された米国のドラマ『将軍 SHOGUN』に出演し、ゴールデンアロー賞を受賞。
一躍、清純派の”国際女優”として注目を浴びたのです。
その後、島田陽子さんは日本とニューヨークを行き来する生活を送っていたのですが、1988年にハワイのコンドミニアムで内田裕也さんとの密会をフライデーされ、不倫が発覚。
当時の内田裕也さんは、樹木希林さんと結婚していましたが、「島田陽子さんのヒモとして生活していた」と言われています。
さらに、浮気発覚後も関係は続くのですが、島田陽子さんの所有する伊豆の別荘でちょっとした事件が発生。
この件で島田陽子さんは、内田裕也さんに愛想を尽かして別れると思われたのです。
ところが、1991年の東京都都知事選に出馬した内田裕也さんに、島田陽子さんが選挙資金の一部を面倒みていたことが判明。
その後、内田裕也さんが落選したことで2人は破局。
愛人の島田陽子さんには、多大な借金だけが残ったそうです。
内田裕也の晩年は孫と子供と生活?
内田裕也さんの晩年は、樹木希林さんとも同居せず、ずっと一人暮らしだったようです。
と言うより、もともと内田裕也さんと樹木希林さんは結婚後、40年以上別居生活していました。
一時は内田裕也さんの方が、樹木希林さんとの離婚を望み、離婚届を提出ましたが、樹木希林さんはかたくなに拒否。
その後に離婚無効の訴訟を起こして勝訴したため、婚姻関係を続けていたのです。
また、樹木希林さんが亡くなった後も、内田裕也さんは一人暮らしだったようです。
2人の間には、子供としてタレントの内田也哉子と、内田也哉子と結婚した婿養子の俳優・本木雅弘がいますが、生活は別々。
さらに娘の内田也哉子、本木雅弘夫婦の間に誕生した長男・雅樂(うた)、長女・伽羅(きゃら)、次男・玄兎(げんと)といった3人の孫もいますが、一緒に生活していなかったようです。
(娘の内田也哉子)
(孫の雅樂、伽羅、玄兎と婿養子の本木雅弘)
では、誰が車椅子の内田裕也さんの世話をしていたのか?
報道によると、内田裕也さんには、付き添いの女性がいたと書かれています。
しかも、その女性は内田裕也さんのマネージャーということから、最期まで人生を謳歌していたと思われます。
そして、内田裕也さんは晩年も金持ちと言うウワサがあったので、どこから収入源を得ていたかを調べてみました。
結論から言うと、樹木希林さんの預貯金が遺産として渡されていたようです。
生前、樹木希林さんは、都内の自宅を含め、10件ほどの不動産を所有。
金額にすると10億円を優に超えるとか。
そして、亡くなる前に所有していた不動産の名義を子供、孫に書き換えるよう遺言書に残していたのです。
いわゆる、遺産相続になるのですが、その内訳は、子供の内田也哉子に港区西麻布の戸建て(時価額約2億7千万)、渋谷区南平台町の戸建て(時価額約7億9千万)、ほかにも世田谷区と目黒区の戸建て。
婿養子の本木雅弘に渋谷区富ヶ谷のマンション(時価額約8千3百万)、渋谷区南平台町のマンション(時価額約2億3千万)を内田也哉子と所有。
生前贈与として、英国留学中の孫・内田伽羅を渋谷区富ヶ谷のマンション(時価額約3千5百万)の名義にしていたのです。
結局、樹木希林さんの財産分与は子供と孫だけで、内田裕也さんへ相続されることはなかたようです。
理由は「お金があったら一晩で全部使うから」。
そのため、内田裕也さんには相続税がかからない範囲の預貯金が、遺産として渡されたということです。
内田裕也の収入源は?
「ロックンロール」が口癖だった内田裕也さんは、若い頃にロックバンド「内田裕也とザ・フラワーズ」、「フラワー・トラベリン・バンド」で活動。
ただし、ヒット曲には恵まれませんでした。
なので、音楽での収入源は微々たるものですが、その代わりプロデューサー業で成功をおさめています。
内田裕也さんは、29歳から39歳までの10年間、沢田研二らが所属する「ザ・タイガース」など、当時のグループ・サウンズをプロデュースして売れっ子バンドに育て上げたのです。
あの矢沢永吉も所属していたバンド「キャロル」がまだ売れていない頃に、「僕らを男にしてください」と内田裕也さんにプロデュースを依頼してきたそうです。
しかし、その後、キャロルは別の人物にプロデュースを依頼したため、内田裕也さんがプロデュースすることはありませんでした。
あと、内田裕也さんの収入源としてあげられるのは、映画があります。
昔の若い頃は、俳優として東宝の「若大将シリーズ」など、数々の作品に出演。
ただ、こちらも音楽と一緒で、役者では儲けていませんが、脚本を書いて成功しています。
(若い頃の内田裕也と樹木希林)
内田裕也さんが初めて脚本を書いたのは、自身が主演を務めた映画「十階のモスキート」で、監督は崔洋一氏。
しかも、監督を発掘する能力に長けているのか、現在、崔洋一監督は日本映画監督協会の理事長に就任しています。
さらに、2作目に脚本を書いた「コミック雑誌なんかいらない!」は、カンヌ映画祭でも上映され、その年の賞を総なめにして世界的に高い評価を受けたのです。
同作品の監督である滝田洋二郎氏も、内田裕也さんが発掘した人物。
その後の滝田監督は、婿養子の本木雅弘が主演を務めた映画「おくりびと」でアカデミー賞を受賞していることを思えば、やはり見る目があったということになります。