☆この記事はこのような人におすすめです。
・伝説のメジャーリーガー、ベーブルースの死因を知りたい。
・ベーブルースの家族や生い立ちについて知りたい。
・元祖二刀流、ベーブルースの成績記録を知りたい。
ベーブルースは、20世紀初頭から中盤にかけて、その卓越した才能と革新的なプレースタイルで活躍。
彼の名前は、長らく語り継がれる最も偉大な野球選手の一人として確固たる地位を築いています。
そんなベーブルースの生い立ちは、決して恵まれたものではなかったようです。
そこで今回は、53歳で死去したベーブルースの死因やメジャーリーグ選手としての成績(記録)。
家族、生い立ちなどについてまとめてみました。
ベーブルースの死因
ベーブルースは、1914年から1935年までメジャーリーグで活躍。
野球の神様と呼ばれ、数々の記録を打ち立てた偉大な選手でした。
そのベーブルースですが、引退した13年後に亡くなっています。享年53
死因は「鼻咽頭癌」という病気。
この病気は、鼻と口の奥にある部分に癌細胞ができるもので、アルコールやタバコが原因となることが多いようです。
癌と診断される前、ベーブルースは1946年に左目に激しい痛みを感じて病院で検査。
検査の結果、悪性の腫瘍が左内頸動脈一帯に広がっていることがわかったのです。
そして、ベーブルースはすぐに放射線療法を受けましたが、効果はほとんどなかったといいます。
その後も新薬を投与したりしたようですが、体調はどんどん悪化。
結局、1948年8月16日、ニューヨークの病院で亡くなったのです。
ベーブルースの生い立ちと家族
ベーブルースの生い立ちは、貧乏家庭で育つという昔ながらのものだったようです。
出身はアメリカのメリーランド州ボルチモア。
1895年2月6日にジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアとして誕生しています。
また、兄弟は9人いたらしいのですが、そのうちの7人が子供のころに亡くなっているとか。
結局、成人を迎えることができたのは、ルースと5歳年下の妹の2人だけだったということです。
なお、ベーブルースの幼少期ですが、両親は酒場を経営するも、貧しくて子供たちを育てることができなかったといいます。
そのため、彼は7歳のときにカトリック系の孤児院に預けられています。
孤児院では、厳しい規律と教育を受け、野球にも出会うことに。
そして、野球の才能を見出されて、孤児院のチームに参加。
ベーブルースはその当時から、ピッチャーとバッターの二刀流で活躍していたそうです。
ベーブルースの妻と子供
ベーブルースは生涯で2回結婚しています。
最初の結婚は、プロ野球選手としてデビューした1914年10月。
妻の名前はヘレン・ウッドフォードと言って、ウェイトレスをしていたそうです。
また、その後夫婦には、ドロシーという娘が誕生しています。
ただ、ベーブルースは野球選手として成功しましたが、妻のヘレンは彼の派手な生活についていけなかったとか。
結果、夫婦は1926年頃から別居。
しかも妻のヘレンは、1929年に自宅の火災で亡くなったということです。
そして、その後のベーブルースは、1930年に女優のクレア・メリットと再婚。
再婚したクレアは、ベーブルースのマネージャー的な存在。
後にジュリア・スティーブンスという養女を迎え、自分の娘のように可愛がったということです。
(ベーブルースの養女のジュリア・スティーブンス)
しかしジュリアは、後に自分が養女だったことを知ります。
それでもジュリアは、そのことを公表せずに両親を深く愛したそう。
なお、ベーブルースは、1948年に亡くなるまでクレアと夫婦であり続けましたが、実子は誕生してません。
ベーブルースの孫や子孫については、ジュリアに2人の息子がおり、そのうち1人は2018年に死去。(養女のジュリアは2019年3月9日に死去・享年102)
もう1人の息子は現在も存命で、祖父の遺品や記念品を保管しています。
ベーブルースの二刀流成績(記録)
ベーブルースは19歳の時、ボルチモア・オリオールズのマイナーリーグと契約。
そこからメジャーリーグへと駆け上がり、ボストン・レッドソックス、ニューヨーク・ヤンキース、ボストン・ブレーブスの3チームでプレーしています。
打者としての成績は、通算714本のホームランを打ち、本塁打王を12回受賞。
特に1927年にニューヨーク・ヤンキースで、60本のホームランを打ったことでも有名です。
なお、通算714本のホームラン記録に関しては、1974年にハンク・アーロンに破られるまで50年間保持。
シーズン60本のホームラン記録は、1961年にロジャー・マリスに破られるまで34年間保持。
通算打率.342、打点2,213という驚異的な成績を残しています。
また、ベーブルースは1914年から1919年まで、ボストン・レッドソックスで投手としてプレーしています。
その間に6回の20勝以上を記録し、1916年と1918年にはワールドシリーズを制覇。
ベーブルースは、1920年にニューヨーク・ヤンキースに移籍し、外野手として打撃の才能を発揮しましたが、時々投手としても登板したのです。
投手成績については以下の通りです。
・163勝76敗、勝率.671
・防御率2.28
・完投107試合、完封29試合
・奪三振488、与四球441
・ワールドシリーズで3勝0敗、防御率0.87
ベーブルースは、1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースの黄金時代を築き、7回のワールドシリーズ制覇に貢献。
1936年には、初めて野球殿堂入りを果たしています。