星野仙一と星野扶沙子の死因!娘と永井病院の関係は?(2024最新)

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☆この記事は、このような人におすすめです。

・プロ野球・楽天球団副会長を務めていた星野仙一さんの死因を知りたい。

・星野仙一さんの嫁・星野扶沙子さんの死因を知りたい。

・星野仙一さんの娘と永井病院の関係を知りたい。

・星野仙一さんが監督時代に行っていた「伝説の鉄拳制裁」について知りたい。

星野仙一さんは、2016年7月に急性膵炎を発症したことをきっかけに癌が発覚したそうです。(享年70歳)

 

死因は膵臓(すいぞう)癌。

 

しかも、2017年12月末から病状が悪化していて、10月26日に行われたドラフト会議から異変を感じさせる様子だったとか。

 

そんな星野仙一さんは、夏になるくらいから痩せ始めているのが目立ち、秋ごろには足元がおぼつかないことが度々起こっていたといいます。

 

当時、星野仙一さんは、病気のことを隠しつつも以下のような弱気な言葉を吐くこともあったとか。

「仕事をいっぱい入れたし、その反動かな。年明けも講演の仕事が入っているが、最近は1時間話すと息苦しいんだ。前はこんなことなかったんだけどな。立っているのがつらいんだ。」

 

かつては「闘将」と呼ばれ、強い相手に闘志をむき出す姿が印象的でしたが、そのような発言をするということは、かなり衰弱していたのだと思います。

 

ただ、そんな状態でも星野仙一さんは、正月に娘さん家族とハワイに行く予定だったとか。

 

しかし、その願いもむなしく、2018年1月4日、最愛の妻のもとへと旅立ってしまったのです。

 

そこで今回は、「燃える男」や「闘将」の愛称で野球ファンから親しまれた星野仙一さんが残した伝説の「鉄拳制裁」や、20年以上前に急逝した嫁・星野扶沙子さんの死因などについてまとめてみました。

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星野仙一の死因

星野仙一さん一家は、年末年始をハワイで過ごすのが恒例だったようですが、2017年は容態が悪かったため、三重県の娘夫婦の自宅で過ごしていたそうです。

 

また、2018年1月2日の夜にトイレで転倒したものの、翌3日は普通に食事を摂っていたといいます。

 

ところが、4日の朝に容態が急変。

 

そして、搬送後、娘さんたちに抱かれて最期を迎えることになります。

 

ただ、そのときの星野仙一さんは、昼寝でもしているかのような安らかな表情を浮かべていたとか。

 

もともと星野仙一さんは、中日の監督時代から糖尿病を患っていたし、不整脈の持病もあったそうです。

 

そのため試合中、ベンチ裏で嘔吐したこともあり、睡眠薬や降圧剤を常に持ち歩いていたといいます。

 

持病を抱えながらも、精力的に活動していた星野仙一さんに異変が起きたのは、2016年7月。

 

都内のクリニックで、「急性膵炎」と診断されたのです。

 

その後、星野仙一さんは、自宅がある兵庫県芦屋のかかりつけ医「松本クリニック」を受診。

 

出張も多いため、東京や仙台の主治医と血液データなどを情報共有しながら、朝夕2回の点滴と重湯だけの生活を3ヶ月間続けたそうです。

 

ところが、この時点で「余命3ヶ月、外科的な処置はもう難しい」という厳しい状況だったとか。

 

死因となった膵臓癌は、もともと早期発見が極めて難しい病気。

 

膵臓は胃の裏側の深い位置にあるので通常、検診を受けても見つかりにくいことが多いのだそうです。

 

また、糖尿病患者の場合は、発生する確率が2倍程度高まるのだとか。

 

結局、星野仙一さんは、球団の最高幹部と家族くらいにしか本当の病状を伝えていなかったようです。

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星野仙一の嫁・星野扶沙子の死因

星野仙一さんの嫁・星野扶沙子さんが急逝したのは、27年前の1997年1月31日。(享年51歳)

 

死因は白血病に併発する肺出血で、星野扶沙子さんは7年間の闘病生活の末、息を引き取ったのでした。

 

(嫁の扶沙子さん)
星野仙一と星野扶沙子の画像

 

2人は大学時代に知り合い、当時慶應大の3回生だった扶沙子さんが、明治大野球部の合宿場を訪ねたのが馴れ初めだったとか。

 

大学卒業後、星野仙一さんはドラフト1位で中日へ入団。

 

プロ1年目のシーズンが終わった1969年12月に結婚し、2人の娘をもうけたのです。

 

また、現役時代の星野仙一さんは、特に目立った成績こそ残していませんが、1度だけ1974年に沢村賞を受賞。

 

それに「打倒巨人」を胸に奮闘していたのは有名です。

 

巨人戦では闘志を燃やし、結果、35勝を挙げるなど、中日のエースとして活躍しました。

 

そして、1982年に現役を退いた後は、野球解説者としての毎日を送っていましたが、87年に球団からの要請があって中日監督に就任。

 

監督に就任して2年目に優勝し、翌年も「いよいよ今日勝てば優勝!」という試合の直前に、嫁の扶沙子さんが倒れたのです。

 

当初、星野扶沙子さんはただの貧血という診断だったそうですが、翌年の春、悪性のリンパ腫があることが判明。

 

1990年夏には医者から、「もって1年か2年の命」と告げられたそうです。(病名は死因に直結する白血病)

 

このとき、旦那の星野仙一さんは、ユニフォームを脱いで、扶沙子さんの看護に専念しようか迷ったといいます。

 

しかし、自分に出来ることと言えば野球だけ。

 

しかもチームが勝てば、嫁も生きる励みになるはずだと思い、仕事を続けることを選択したのです。

 

それは扶沙子さんの望みでもあったそうです。

星野仙一の娘と永井病院の関係

星野仙一さんは、愛妻家だったといいます。

 

しかし、嫁の扶沙子さんが大変なときに、仕事を優先していたため、2人の娘さんとの間で溝ができていたそうです。

 

ただ、親子にできた溝の深まりは扶沙子さんが亡くなってから解消して、元通りになったのだとか。

 

そんな2人の娘さんは、三重県津市にある医療法人「永井病院」の長男、二男のもとにそれぞれ嫁いでいるそうです。

 

結局、娘さんと永井病院の関係というのは嫁ぎ先だったわけですが、兄弟2人と姉妹2人の結婚はなかなか珍しいこと。

 

ただ、二男の方は養子縁組になって星野家を継いでいるといいます。

 

また、2人の娘さんにはそれぞれに子供がいて、生前の星野仙一さんは、自宅の芦屋で下の娘さん一家と同居していたそうです。

 

さらに、星野仙一さんと娘さんとのエピソードとして、こんな話も。

 

2002年、星野仙一さんは阪神に監督就任していますが、オファーがあった際、悩む父親に娘さんがこう言ったそうです。

 

「パパはファンの人たちに喜ばれる野球をして来た人。それがママの口癖だったから、私たちは賛成よ。」と。

 

星野仙一さんが溺愛した娘の言葉は、扶沙子さんの言葉だったのです。

星野仙一の伝説の鉄拳制裁とは?

星野仙一さんが初めて監督に就任したのは1987年、39歳のときでした。

 

中日の監督で2度、阪神で1度、リーグを制しながら日本一を逃していましたが、2013年の楽天で宿敵巨人を下し、初の日本一に。

 

そして、伝説の「鉄拳制裁」は、初めて監督に就任した中日時代にさかのぼります。

 

このころの星野仙一さんはとにかく血の気が多く、試合でミスする選手に鉄拳制裁を与えていたのです。

 

試合中、ベンチにある扇風機を壊したのは有名な話ですが、こんなのはまだまだ序の口。

 

星野仙一さんは、ベンチ裏でミスした選手に平手を浴びせていたのだといいます。

 

その当時、よくやられていたのはキャッチャーの中村武志選手だったとか。

 

鉄拳制裁を与えられた中村武志選手の顔は変形するほどで、翌日には顔が膨れ上がっていたこともあったそうです。

 

ただ、こうした選手への「制裁」の育成法は、当然ながら波紋を呼んだといいます。

 

それでも、鉄拳制裁を受けた選手が、星野仙一さんを恨むようなことは少なかったとか。

 

というのも、星野仙一さんが「鉄拳制裁」を与えるのは見込みのある選手ばかりで、手をあげても翌日にはその選手にいろいろと声をかけて、突き放さなかったのだといいます。

 

やられた選手も、愛情の裏返しだと好意的に捉えることで、我慢していたようです。

 

そして伝説の「鉄拳制裁」も、阪神の監督に就任したころには鳴りを潜めます。

 

また、中日時代もですが、星野仙一さんといえば、選手や球団スタッフ、コーチの家族に誕生日プレゼントを贈ることで有名。

 

プロ初勝利を挙げた投手に至っては、腕時計を贈るなどの気配りをしていました。

 

「アメとムチ」ではないですが、そういったやり方で星野仙一さんは、選手と絆を深めていたのだと思います。

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