2015年に死去したロサンゼルス・ソウル五輪柔道95キロ超級金メダリスト・斉藤仁氏(享年54)。
死因は、肝内胆管がんに伴う癌性胸膜炎でした。
そもそも肝内胆管がんは、酒の飲みすぎが大きく関わってくる病気と言われていますが、斉藤仁氏が亡くなった原因が酒だったのかは不明。
嫁の三恵子さんは今でも、遺骨は傍に置いたままで現在も大阪で暮らしているそうです。
また、斉藤仁氏には2人の息子がいるのですが、2人とも父親の遺伝子を受け継ぐ柔道家です。
長男・一郎は実力を認められ、名門、国士舘大学に進学。
次男・立も国士舘高校から国士舘大学に進学しています。
そんな息子たちをいちばんの生き甲斐と感じる母親の三恵子さん。
中でも特に期待しているのが、次男の立だそうです。
次男・立は小学生の全国大会で優勝したほどの実力者。
上宮中学でも”中学生日本一”に輝いています。
そこで今回は、斉藤仁氏の死因や息子の一郎、立についてまとめてみました。
斉藤仁の病気
斉藤仁氏の病気(胆管がん)が発見されたのは2013年12月。
2013年といえば女子柔道における暴力問題が発覚した年で、当時はJOCによる聞き取りなど大混乱に陥っていました。
そのため全日本柔道連盟が改善プロジェクトを発足。
責任者として山下泰裕氏が就任。
斉藤仁氏は山下泰裕氏と共に新体制で、16年リオデジャネイロ五輪、20年東京五輪を目指していました。
しかも強化のトップとして再建を託され、柔道の指導にあたっていた斉藤仁氏でしたが、ひょんなことから”がん”が発覚してしまいます。
がんは気楽に受けた検診の結果で判明し、「異常なほど肝機能の数値が悪い」 と医師から言われたのがきっかけだったそうです。
そして、その後の精密検査で肝内胆管がんが発覚するのですが、すでに切除不能の診断だったといいます。
そこから斉藤仁氏の闘病生活が始まるのですが、治療中に糖尿病や胃炎を患い、2014年末には病状が悪化。
段々痩せ細り最後は手の施しようがなかったそうです。
斉藤仁の死因は酒が原因?
そして2015年1月20日、とうとう斉藤仁氏は享年54で永眠してしまいます。
葬儀には山下泰裕氏や全日本男子の井上康生監督、女子の南條充寿監督。
愛弟子の鈴木桂治コーチ、暴走王・小川直也氏、五輪3連覇の野村忠宏氏など関係者約600人が駆けつけ、故人の冥福を祈りました。
本来なら斉藤仁氏は、強化委員長として2016年リオ、20年東京五輪への指揮を執るはずでした。
死因は肝内胆管がんに伴う癌性胸膜炎と発表されましたが、原因はやはり酒だったのでしょうか。
胆管がんの原因は高カロリーの物を取りすぎたり、酒の飲みすぎ、肥満などが大きく関わってくるといいます。
斉藤仁氏に至っても、若い頃から重量級のチャンピオンだけを目指していただけに、体を大きくしたい一心で暴飲暴食して昼寝を繰り返していたそうです。
やはり酒も好だったらしく、現役時代も酒席の誘いは決して断わらず。
それが体を壊す結果になったのだと言われています。
治療中に糖尿病を患っているところを見ると、結局、死因の胆管がんは暴飲暴食などを繰り返していたことが原因だったのかもしれません。
斉藤仁の息子は一郎と立
斉藤仁氏には2人の息子がいますが、その息子たちもまた柔道家です。
中でも次男の斉藤立は現在、偉大な父の背中を追い、柔道の才能を開花させています。
とりわけ、次男の立は小学生時代、全国大会の無差別級で圧倒的な実力差を見せて優勝。
小学6年生にして身長174センチ、体重116キロと父譲りの体格に恵まれ、父親の斉藤仁氏も期待を寄せていました。
さらに上宮中学時代は身長186センチ、体重147キロに成長。
生前父、斉藤仁氏に約束していた中学生日本一を決定する全国大会に挑んだ立は、90キロ超級で見事優勝を果たしています。
なので、息子2人がそれぞれ進学を控えた際、三恵子さんのもとにアテネ五輪の金メダリスト・鈴木桂治氏が訪ねてきたそうです。(鈴木桂治氏は、斉藤仁氏が代表監督をしていたときの愛弟子)
当時の鈴木桂治氏の目的は、「高校・大学とそれぞれ進学を控えた息子たちを自らが監督を務める国士館に誘うためだった」といいます。
東京にある国士館は、高校、大学ともに全国トップクラスの柔道強豪校。
息子たちにとって願ってもいないオファーで、2人の息子は大阪から離れ、長男・一郎は国士舘大学、次男・立は国士舘高校へと進学したのでした。
(斉藤仁の長男の一郎)
しかも、現在、国士舘大学に在学中の次男・立は、日本柔道強化選手に選ばれるほどの実力者で、柔道男子のパリ五輪100キロ超級代表に内定。
将来を期待されている柔道界のサラブレットなのです。
一方、もうひとりの息子で長男の一郎ですが、現在は名古屋経済大学高蔵高で保健体育の教員をしているそう。
そんな息子たちに夢を託そうとしていた斉藤仁氏は、生前、関西に居を移し、自宅の畳も柔道用に改装。
病室でも息子たちに打ち込みの稽古をつけ、最後の言葉も“稽古に行け”だったそうです。