歌手の大黒摩季は、2010年10月末をもって無期限の歌手活動休止を発表していました。
理由は病気の「子宮疾患」と「不妊治療」のためです。
もともと大黒摩季は、1996年から体調を崩して闘病を続けていたといい、本格的な治療を行うために活動を休止する決断をしたといいます。
患っていた病気は重度の「子宮腺筋症」だけでなく「チョコレート嚢腫(左卵巣嚢腫)」「子宮内膜症」、「子宮筋腫」も併発。
内臓を圧迫するほどの状態だったそうで、当時は旦那との離婚も考えたといいます。
本格的な治療を行うには、長期間生理を止める必要があり、強い薬を使わなければならなかったとか。
その副作用がきついので、歌手活動を続けるのは無理だったということです。
そこで今回は、離婚した元旦那や子供、患った病気のことについてまとめてみました。
大黒摩季の病気歴
1996年から体調を崩して闘病を続けていた大黒摩季は、病気の子宮疾患の治療のため、2010年10月末から無期限で活動を休止することを発表しました。
自身のブログでもファンに向けて、このように公表していたのです。
「1996年末に発覚し、だましだまし付き合って来ました子宮疾患がここに来てかなり進行し、集中して治療しなければかなりマズイと言うことで、その治療のためやむなく活動休止せざるをえない状況です」
もともと大黒摩季は生理痛がひどく、レコーディング中に倒れてしまうことがあったといいます。
大黒摩季の病気は、重度の「子宮腺筋症」以外にも、「チョコレート嚢腫(左卵巣嚢腫)」、「子宮内膜症」、「子宮筋腫」も併発。
数多くの子宮疾患が重なり、子宮や卵巣、卵管がひとかたまりに癒着して子宮全体が大きく腫れ、骨盤の中で大きな塊となって他の臓器を圧迫している状態だったそうです。
チョコレート嚢腫に関しては、同じ歌手の岡本真夜も、チョコレート嚢腫で手術を受けていたことを明かしています。
岡本真夜は、「腫瘍が7センチになっていて、放っておくとがんになる可能性がある」と告げられ手術を決断。
だったのですが、手術の2週前に再び激痛に襲われ、緊急手術をおこなったそうです。
ちなみに、緊急手術をおこなうことになった原因は「チョコレート嚢腫」が破裂したためでした。
大黒摩季が旦那と離婚で子供は?
無期限の休止を発表したころの大黒摩季は、歩けなくなることもあるぐらいに病状が悪化し、子供を産めなくなる可能性もあったといいます。
大黒摩季の旦那は、1才年下の一般男性で、2003年に結婚。
結婚後は子供を授かりたかったのですが、病気が原因で不妊症と診断されていたのです。
それでも、あきらめることなくホルモン治療や、体外受精に踏み切ったのだとか。
ですが、ハードな音楽活動もしていたため、何度か流産を繰り返し。
結果、さらに子宮に負担をかけてしまうという悪循環に陥ったそうです。
当時は、これ以上悪くなれば完全に子供を産めなくなるという状態。
また、旦那に迷惑がかかると離婚も考えたといいます。
しかし、旦那は大黒摩季の体を第一に考え「無理しないで。まずは体を治そう」と優しい言葉をかけてくれたそうです。
大黒摩季は、そんな旦那の優しさに触れて、まずは、病気の進行を止める手術のために活動休止を決めたのでした。
そして、2015年11月に手術を受け、無事に成功。
20年間苦しんできた病を完治させ、6年ぶり歌手に復帰したのです。
結局、子供はできませんでしたが、旦那とは2019年4月に離婚。
離婚理由は子供ができなかったことでしたが、離婚した元旦那は現在、再婚し、待望の第一子が誕生。
再婚妻といっしょに幸せな生活を送っているということです。
大黒摩季の復帰
1992年に「STOP MOTION」で歌手デビューした大黒摩季は、2ndシングル「DA・KA・RA」がミリオンヒットを記録。
以降も「夏が来る」、「ら・ら・ら」、「熱くなれ」など数々のヒット曲を連発したのです。
そんな大黒摩季ですが、デビューからの数年はメディア出演や、ライブ活動をすることはなく、「実在しない」との都市伝説さえ囁かれていました。
ですがついに、1997年8月1日、ライブ会場からの生中継という形ながらも、初めてメディア出演することに。
その番組こそが「Mステ」で、初めて本格的にファンの前に姿を現したのです。
大黒摩季は、翌年9月11日にも「Mステ」に2度目の出演を果たしますが、以降からは出演なし。
滅多に歌番組に出演しない大黒摩季は、病気で休養するまでの間でも「Mステ」以外の歌番組に出演しませんでした。
そして、約6年ぶりに復帰した大黒摩季が最初に選んだ番組が、これまた「Mステ」。
18年ぶり3度目の出演になったのです。
なお、大黒摩季はその後、「情熱大陸」に出演し、活動休止中だった6年間の闘病生活について言及。
復帰した今では、自分自身を「音楽バカ」と称し、「今は音楽づくりに飢えている」などと語ったのでした。